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2016年1月 1日 (金)

2016年賀

 謹賀新年。

 穏やかな日差しのせいもあって、ここ数年に無いゆったりとした気分の元旦を迎えました。
 昨年3月末に長崎大学核兵器廃絶研究センターの任期を終え、横浜のピースデポの仕事に戻りました。遣り甲斐のある充実した3年間でした。引っ越し荷物が着いたのが5月の下旬、仕事の合間にシュレッダーにかけながら書類を少しずつ片づけるのに年末までかかりました。
 出口の見えない時代に突入していると感じます。私たちは、少なくとも産業革命以来の西欧文明の転換期にいると思います。資本主義と科学技術が問うべき鍵だと考えています。目標が見えていない、人間の一生よりもはるかに長い射程の変革に人類は挑まなければなりません。デマゴギーの跋扈を跳ね返しながら。「憲法9条」も「核兵器廃絶」も大切な手掛かりです。

 2016年 元旦  梅林宏道 

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2015年1月 1日 (木)

2015年賀

 謹賀新年。

 早いもので、今年の3月末に長崎大学「核兵器廃絶研究センター」センター長の任期を終えます。77歳の単身赴任にはここが限度という感じです。世界で初めての核廃絶研究センターを何とか軌道に乗せることができたのではないかと思います。残念ながら、世界の軍事化は緩まず核廃絶への道は進んでいません。被爆地の原則を曲げない発言がますます必要とされる時代が到来しています。日本は被爆国の道理に帰って、まず「北東アジア非核兵器地帯」の提唱国となるべきです。このことを言い続けたいと思います。
 失業しないためには原発再稼働も必要だと住民に言わせる政治は、景気のためには兵器を売ることも必要だと言わせる政治と同質です。ピースデポを拠点に、長崎とも繋がりながら、若い人と思想を語る活動を続けたいと思います。

 2015年元旦 梅林宏道

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2014年1月 1日 (水)

2014年賀

 謹賀新年。

 早いもので、長崎大学「核兵器廃絶研究センター」に赴任してから1年8か月が経ちました。11月にバンコクで食あたりして体調不良が続いたほかは、概ね元気に過ごしています。
 長崎と横浜を往復する二重生活に少しは慣れましたが、人の思考のあり方と生きる場とは分かち難い関係があると考えてきた私にとって、この暮らし方には違和感が付きまとっています。南蛮貿易以後の日本の歴史の宝庫である長崎に、もっと若くして棲むことができていたらと考えることがしばしばあります。
 今年9月には、「北東アジア非核兵器地帯」に関する重要な会議を東京で開きます。春には念願かなって拙著「非核兵器地帯」の韓国語版が出版できそうです。軍事力に依存しない地域平和の仕組み造りに一歩一歩進みたいと思います。

 2014年元旦 梅林宏道

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2013年1月 1日 (火)

2013年賀

 謹賀新年。

 急でしたが昨年4月1日、長崎大学核兵器廃絶研究センターの初代センター長に就任しました。年齢を考えると激務に耐えられるのは3年が限度と考えています。手持ちの必要資料が膨大すぎて横浜に残さざるを得ず、横浜と長崎を往復する生活が続いています。
 ライフワークである核兵器廃絶をテーマに誕生した世界唯一の研究所で、しかも最後の被爆地とすべき長崎で働けることは幸せなことです。現実の世界政治と日々闘う生き方の連続性も、私にとっては魅力です。北東アジア非核兵器地帯の設立を通じて、日本の「核の傘」依存政策の転換を図ることが、まず取り組むべき順序であろうと考えています。

 2013年元旦 梅林宏道

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2012年1月 1日 (日)

2012年賀

 謹賀新年。

 いつもとは違う気持ちで2012年を迎えました。
 私にとって福島原発の事故は、目の前の惨状や社会をおおう不安、そして怒り以上のものとしてあります。惨状や怒りから目をそらしませんが、もっと大きな問いから私は逃げられません。
 高度科学技術社会への批判から私の社会運動は出発しました。私の原発批判は放射能禍やエコロジー論ではなく、エリート管理社会批判が基本でした。エリートが創り出す高度化した科学技術の産物は、形成の過程においても以後においても、国家と大企業の保護のもとに社会的な存在となります。大部分の人たちが、その〈恩恵〉に浴すればするほど、技術それ自身のなかにも、社会制度のなかにも、大きなブラックボックスが生まれます。そして、人々の中には専門家依存の惰性が定着してゆきます。民主主義が、どのようにしてこの現代社会の宿痾を克服するのか。思想的営為が求められています。

 2012年元旦 梅林宏道
 

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2011年1月 4日 (火)

2011年賀

 謹賀新年。

 あっという間に2010年が過ぎてしまいました。覚悟していたとはいえ、変化とは、浮き沈みする変化のうねりの持続であると再認識しています。日米関係を対等なものに変えるには、右往左往しない原理と胆力が必要です。政治家も市民も原理を語るべし、政党は原理を建てるべし、です。
 北東アジア情勢は、私たちの平和原理を試しています。こういうときにこそ、これまでの蓄積が役に立つ働きをしたいと念願しています。幸い、「さい塾」を通じて若い人たちと接する機会に恵まれています。その輪を大切にすることを考えながら・・・。
 3人目の孫が1月には生まれそうです。関西にいる孫を抱くことが今年の目標の一つです。皆さまにとって充実した年でありますように。

  2011年元旦 梅林宏道

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見えない世界の人々とつながる

(親鸞750大遠忌浄光寺しおりのために書く)

手探りの半生
 私は浄光寺の次男として生まれました。1956年に洲本高校を卒業してから物理学を志して東京の大学に入りました。大学を卒業するときに自分が何をしたいのかが定まらないまま、とりあえず大学院に進学し博士号を得ました。しかし、学ぶうちに大学の学者世界に強い疑問を抱くようになりました。
 日本は高度成長期に向かっていました。日本の物理学はそれなりの国際水準にあったと思いますが、私に我慢がならなかったのは「良き学者たち」の姿でした(ナチス・ドイツに従順にしたがった善良なドイツ人は後に批判を込めて「良きドイツ人」と呼ばれました。)恵まれた学者や学者の卵たちは、マイカーを持ち始めていました。週末には、出来たばかりの高速道路をマイカーで走り、冬にはスキーを積んで雪道を走っていました。昼食時はそのような会話で賑わっていました。欧米の中産階級の生活スタイルが、大学エリートたちに浸透し始めていたのです。その頃、日本では、公害が社会問題となり、軍事同盟である日米安保条約や米軍基地問題が社会問題になっていました。
 「海賊版」という言葉をご存じでしょうか。現在の中国で有名ブランド品やキャラクター物品を闇で作って売っていることが問題になっていますが、そのような闇出版の本が「海賊版」です。私の周辺にいた大学の裕福なエリートたちは、洋書の海賊版のブローカーでした。専門分野の誰もが欲しがる高価な洋書を著者の許可も版権もなく闇業者に作るよう勧めます。さすがにエリートたちが業者から謝礼を得ていたとは思いません。自分が読みたい、作れば売れるという感覚から勧めたのです。マイカーを走らせている、当時では優雅な生活があるのに、海外の研究者の労作を海賊版で買うことが当たり前のように行われていました。これはほんの一例に過ぎません。学問をすることと自分が人間としていかに生きるかという問いとは無関係であり、大学は「学問の自由」という美名で守られた小さな特権世界を作っていたのです。
 私は別の生き方をしたいと思いました。
 その後、さまざまな壁に突き当たりながらも、志をもって別の道を歩み始めました。米国に留学したり、企業の研究所に入ったり、大学で物理を教えたりしながら、42歳のときに決断をして全ての職を辞して、反核・平和・人権運動に身を投じることになりました。それから15年経って、やっと現在のNPO法人ピースデポを設立することが出来ました。ピースデポの「デポ」というのは、物資を貯蔵し輸送する拠点を意味する英語です。ですからピースデポは「平和のための倉庫」です。私たちは「市民の手による平和のためのシンクタンク」と呼んでいます。政党や大組織によるのではなく、市民一人ひとりの会費やカンパで運営されている、この種では今でも日本でただ一つの団体です。

一人ずつの「世界」と出会う
 自分なりの生き方を選択することを言葉に表すために、小さな同人誌を出したのが32歳のときでした。それから40年以上が経ちました。40年を振り返ってみると、私はずっと見えない人々と向かい合って生きてきたことに気付きます。それは、私が想像によって心に描いた世界に住む人々です。その後、人々と実際に会うことができた人々もいますし、まだ会えない人々もいます。会いたいと思わない人々もいます。
 実際には、市民運動の中でさまざまな人たちと出会いました。大工さん、うずら屋さん、設計士さん、公務員、学生、ジャーナリスト、学校の先生、労働組合員、主婦、会社員、高級官僚、市会議員、国会議員、お坊さん、牧師さん、大学生などなど。直接に会わなくても、ミニコミを通じてさまざまな人たちの肉声に触れて来ました。それ自身、かけがえのない経験であり感謝すべきことに違いありません。けれども、ある作家が言ったように、私も含めて、どの人間にとっても、世界はその人を中心に回っています。
 私にとっては、ある人との出会いは、その人そのものよりも、その人を中心に回っている世界との出会いでした。その世界が、私を刺激し、批判し、鼓舞し、支えて来たように思います。たとえば、私はこれまでに数え切れないほど韓国を訪れていますが、最初に韓国の土を踏むまえに、私の心の中には無数の韓国の人々が棲んでいました。本で読み、話を聞いて知った人々です。70~80年代、韓国の独裁政権と闘い、民主化のために投獄され、命を失った無数の有名、無名の人たちです。私は、日本は韓国の独裁政権に加担するな、経済侵略するな、植民地支配を悔いよ、と日本国内で闘っていました。7年ほど経って、やっと訪韓がかなったときに初めて想像上の人々の何人かと会いました。そうすると、その人たちを中心に回っている世界を、私はあらたに発見します。
 このようなことが、フィリピンで、タイで、香港で、そしてインド、バングラデシュ、モンゴル、オーストラリア、アメリカ西海岸、アメリカ東海岸、カナダ、ジュネーブ、そしてウィーンで起こりました。体力が衰えてペースは落ちましたが、今もこの無限運動は続いています。
 数年前から、私は世代の違う若者たちと同じような出会いを始めたいと思うようになりました。手探りでチャレンジをしている若い人を中心に回っている世界と出会うことが、私の人生を閉じるまえに必要だと感じたからです。今度は、私が彼らと出会うのと同じように、若い人たちが、私を中心に回っている世界を彼ら特有の感性で感じとってもらうことが出来たらと願っています。これは欲張りすぎでしょうか。そのため出会いの学校「さい塾」を始めました。「さい」は「際」です。漢和辞典を引くと「山と山が重なり合うところ」を意味します。日々はインターネットで結ばれ、ときどき顔を合わせます。
 この拙文が、生家である浄光寺の「親鸞聖人750回大遠忌法要」の「しおり」にふさわしい読み物かどうか、私には分かりません。ただ、動乱期の革命家であった真の宗教者・親鸞への敬愛の念がこの拙文とつながっていると、私なりに感じています。(2010年師走)

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2010年1月 3日 (日)

2010年賀

 謹賀新年。

 日本で大きな変化が始まりました。
 期待の分だけ不安も大きくあります。実際のところ、日本だけでは変わることが極めて困難な世界に我々は住んでいます。トータルに語ることが必要です。それがまだ始まっていません。
 昨年始めた「さい塾」(トランスフィールダーズ・スクール)は順調です。若い人たちとともに米軍問題で新しい蓄積が始まりました。左記のホームページをご覧下さい。
 核兵器廃絶は手強い課題です。政策論に内接しつつ、道義と法の問題として論じる力が必要だと感じています。ブログ「ぷろじぇ」をもっと活用したいと願っています。
 体調は万全とはゆきませんが牛歩で進みます。本年もよろしく。

 2010年元旦

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2009年1月 3日 (土)

2009年賀

 謹賀新年。

  今年は6回目の年男となります。
 昨年2月にピースデポ代表を退きました。月2回の情報誌の主筆とイアブックの監修を続けていますので、忙しさは続いています。それでも気分を一新して人生の新時期に一歩を踏み出すことができました。
 6月に「さい塾」(トランスフィールダーズ・スクール)を開塾、情報公開法をツールとして若い人々との交流を楽しんでいます。40年前の同人誌と同じ「ぷろじぇ」という名のブログを始めました。暮れには「核兵器廃絶日本政策評議会」の立ち上げに着手しました。10年間、国際NGO「中堅国家構想」に関与する中で構想してきたものです。オバマの登場は希望ですが、米国は一筋縄では変わらないでしょう。
 先達の生き方に感嘆することの多い年齢になりました。歩幅は小さくなりましたが、ともかく前に進みます。よろしくご鞭撻下さい。

 2009年 元旦

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