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2015年11月

2015年11月30日 (月)

「核の傘」政策を変えることに集中すべきではないか?

好戦的指導者の下で迎えた被爆70年
 70年の歳月は十分に長い歳月である。
 敗戦を教訓にしたはずの日本は、侵略戦争を正当化する歪んだ歴史観を持つ安倍晋三氏を指導者に選ぶまでに変容した。安保法制を議論する国会は憲法九条のもとで、どこまで武力行使ができるかを議論するという本末転倒の場になっている。安倍首相が仕掛けた土俵によって、防戦する側もそこで戦わざるをえない。実際にはこれは罠である。首相は自衛隊員をできるだけ危険に近づけて、犠牲者が出ることを待っているのではないか。その時こそ、それを防ぐには一歩先んじた軍事力の行使が必要であると国民を説得できるに違いないと。
 国民をより危険に曝す方向であることを知りながら、「国民の生命と財産を守るため」と安倍晋三氏は恥ずかしげもなく言う。先の戦争は国民の生命と財産を守ったのか。指導者たちが政治を過ったのではないのか。指導者になるに当たって政治家・安倍晋三はそこをどう総括し、反省しているのか?国会はこのような根本問題を質すべきである。
 国民を守るための「切れ目のない政策」と言う。国民が危険に曝され「止む無し」と罠にはまりそうな軍事シナリオを捻り出して、こんな場面では集団的自衛権を行使せざるを得ないという。その手に乗ってはならない。そもそも軍事シナリオで切れ目のないシナリオを描くなどということは無意味である。そのような場面に至る前に打つべき手は、切れ目なくいくらでもある。それが軍事的な手段である場合には、事情は敵にとってもまったく同じである。打つべき手を打たせないことが重要だと考えれば、敵にとっても遡って打つ手は切れ目なく存在する。戦争とはそういうものである。だから、戦争状態や戦争直前状態に近づいてはならない。国会ではこのようなことを議論すべきである。
 「国民の生命と財産を守るために切れ目のない政策を講じる」という首相の言辞に偽りがないとすれば、首相はなぜ真っ先に、日本に対する核兵器使用のリスクをゼロにする努力をしないのか?一たび核兵器の使用があれば、おびただしい数の国民が被害を受けるのみならず、被害者を救護する手段が残されていない。日本は唯一そのことを実体験した国である。そのうえ、核兵器の人道的影響を検討した3回にわたる最近の国際会議で、そのことが繰り返し確認された。米国の「核の傘」に頼ることでは核兵器使用のリスクをゼロにできない。それどころか、日本が米国の核兵器に頼ることが必要だと言う同じ論理によって北朝鮮の核開発が正当化され、核兵器使用のリスクを高めている。
 核兵器であるか通常兵器であるかに拘わらず、そもそも抑止論と憲法九条は両立しない。抑止は破られることを想定して抑止力を発揮する。米国の場合、抑止と同時に「抑止が破れたときに敵を殲滅する」という教義を掲げて抑止論が成立している。「武力による威嚇と行使を放棄する」と謳った憲法の下において、抑止論は「攻撃を思い留まらせる自衛のための抑止力」という理屈においても完結しない。上記のような、自衛のために「切れ目のない」抑止力という無限地獄に陥っている現実が、その破綻を示している。抑止論による安保論議は「憲法9条は変えなければならない」という議論を誘う罠である。

被爆コミュニティという平和基盤
 単身赴任であり横浜と往復する形であったが、私は今年の4月までの3年間を長崎大学で過ごすことが出来た。その中で、被爆したコミュニティが年輪を重ねながら到達している現在の姿に、不十分ながら触れることが出来た。「触れる」というより「感じる」といったほうが適切かもしれない。かねてから、被爆者だけではなく被爆コミュニティを対象化することが大切ではないかと感じていたが、そのことを改めて実感した。
 被爆者が体験の記憶を語る行為とは別に、広島でも長崎でも、被爆者が被災地の一軒一軒を復元する地図の作成に参加することを通して、被爆時の人のつながりを再確認する歴史があったことを知った。被爆死者を思い出し、自分が生きていることを再認識し、被爆の瞬間から親族、隣人、縁故者がどう交わり、交わらなかったのかを想起し、辿りえない記憶が無数にあることを知る…などなど、被爆コミュニティの原体験を対象化する営みがあった。国家権力の行為によって、一つのコミュニティの人間と財産とそれらの関係の全体が、ある日突然に破壊された。そこから回復するプロセスとは、このようなコアとなる被爆死者・被爆者のつながりの基礎のうえに無数の直接、間接のコミュニケーション、交流、関与のプロセスであり、それを繰り返す年月の積み重ねがあって今日がある。
 私が関心を寄せるのは、そのようなプロセスにおいて、被爆コミュニティが非被爆者を巻き込み拡大してゆくプロセスである。とりわけ、さまざまな論争が沸き起こった機会を通して、被爆コミュニティは広範なテーマについて共有される理解の範囲と深さを計測し確認していったと考えられる。このプロセスはコミュニティの周辺部にコミットする人々の輪を創り出した。広島市が平和記念都市建設法、長崎市が国際文化都市建設法を憲法95条に基づいて住民投票するプロセスは被爆コミュニティをどう変えたのだろうか。被爆者救済のさまざまな立法に関わる論争はどうであっただろうか。平和教育に関する論争はどうか。被爆者が、市が主催する8月9日の式典について疎外感を覚える趣旨を述べた文章を読んだことがあるが、コミュニティの拡大はこのような新たな争点を生み出しながら新たなコミットする人々を生み出した。
 どこまでが被爆コミュニティなのかという境界を定義することは簡単ではない。しかし、広島市、長崎市を一歩出れば、市民の平和活動に対する自治体の理解度に雲泥の差があると多くの人々が言う。このように被爆コミュニティは確実に存在する。私自身、被爆コミュニティの周辺に位置し始めているのだろうと自覚する。そして、被爆体験の継承という文脈における議論は深められなければならないが、被爆コミュニティが戦後日本の平和主義を継承する基盤としての役割を果たしうると強く感じる。
 誰がそのコミュニティに属するかではなくて、今日においてそのコミュニティの属性は何かを明らかにすることが必要だ。私には、単純なようだが、「核兵器は悪である。二度と被爆者を作らない」という核兵器に関する認識と「戦争はむごい。戦争を始めてはならない」という不可分の二つの要素が、今日も被爆コミュニティの基本的な属性になっていると理解される。
 冒頭に述べたような被爆70年における日本の状況を考えたとき、このエッセイのタイトルに辿りつく。
 被爆コミュニティはいま、「核の傘」政策を変えることに集中すべきではないか?(2015年7月7日記)

証言 第29集』所収(2015年11月20日、長崎の証言の会)

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2015年11月23日 (月)

対印原子力協力は、核拡散ではなく核軍拡への協力

対印原子力協力は、核拡散ではなく核軍拡への協力
――インドは南アジアを超えて世界の核軍拡を助長する

 貪欲に武器輸出と原発輸出を推進するアベノミクスが、日印原子力協定に突き進もうとしている。インド国内で使用される核技術や核物質において、軍用と民生用の区別をすることが無意味であることは誰の目にも明らかだ。外から供与された機器や物質が仮に民生にのみ使われたとしても、それによって余裕ができる国内資源を、インドはそれだけ多く核兵器に回すことができる。

 インドの核兵器増強は新しい段階に入っている。南アジアのインド・パキスタン核兵器競争を牽引しているのみならず、中国との関係を通して世界の核兵器競争を後押しする段階に来ている。

 インド核戦力に関して注視すべきことの一つは、イギリスもフランスも戦略核兵器の3本柱を放棄している中で、米国、ロシア、中国についで戦略核の3本柱を保有する4つ目の国になろうとしていることであろう。すでに地上発射弾道ミサイルと航空機搭載の核戦力を配備しているインドは、最初の戦略原潜アリハント(サンスクリットで「敵を打ち負かす者」)の初期航海を2014年に終えた。今月にも最初の潜水ミサイル発射テストを行い、来年2月にも就役する予定であると報道されている。これは中国を凌ぐペースである。中国がNPT加盟国として核軍縮義務を負い、国際的な圧力の中に置かれているのに対して、NPT非加盟のインドは誰からも制約されずに核軍拡を続けている。インド核戦力の戦略的意図は、これまで主要には中国との関係に焦点を当ててきた。しかし、今後は中国をより強く意識した、新しい競争を強いられることになる。このことが世界の核軍縮の障害となることは避けられない。
 因みに、インドの核弾頭数は現在110~120発と推定されているが、毎年20発程度増強している。中国は現在260発程度と推定されるが、増加速度は10発程度以下と予想される。インドの弾頭数が中国に近づくとき、これまでの中国の抑制的姿勢が変化する可能性があるだろう。

 パキスタンはインドと違って、自国の核戦力を一義的に対インドの戦略関係において組み立ててきた。核兵器使用がもたらす地球規模の気候変動の問題が、南アジアにおけるインド・パキスタン間の核兵器の撃ち合いを想定して議論されてきたことに象徴されるように、この地域の核バランスのリスクは極めて大きい。とりわけ、カシミア紛争に起因するパキスタンの過激派グループに対して、インドが攻撃的な「コールド・スタート・ドクトリン」の適用を示唆する最近の情勢において、リスクはいっそう高まっている。インドの攻撃的ドクトリンに対して、通常兵器における劣勢を意識するパキスタンのチョードリー外相は、10月20日、核兵器の先行使用で対抗すると表明した。ここでは、2キロトン以下の戦術核兵器ナスルの使用が想定されているとされる。そして、私たちにも馴染みの深いペルベス・フードボイ博士によれば、この規模の戦術核使用は全面的な核戦争には至らないという読みがパキスタン当局にはあるという。しかし、彼も言うとおりこの読インドの核兵器増強は新しい段階に入っている。南アジアのインド・パキスタン核兵器競争を牽引しているのみならず、中国との関係を通して世界の核兵器競争を後押しする段階に来ている。みは極めて危険である。インドとの原子力協力によってインドの核軍拡を容認する行為は、このような南アジアにおける印パ核軍拡競争を煽ることにつながる。

 その上、インドの核兵器増強のペースを決定する因子は、運搬手段の開発ペースと核分裂物質の生産ペースの両方であるという現状に注目すべきである。中国以外のNPT上の核兵器国では、兵器用核分裂性物質(濃縮ウランとプルトニウム)を過剰に保有しているが、インド、パキスタン、中国は、世界的な核軍縮の約束が確立されない限り、兵器用核分裂物質の生産の継続が必要だという立場である。したがって、日本の原子力協力は、インドの兵器用核分裂性物質の生産を助け、核兵器増強に協力することを意味する。

  日本政府は、最近の国連総会で提案した新核軍縮「日本決議」において、インドを含むNPT非加盟国に対して、非核兵器国としての早期の無条件NPT加盟を要求したのみならず、NPTに加盟するまでの期間においても「NPTの諸条項を守り、NPTを支援する実際的措置をとる」よう要求した。上記のような状況下における日印原子力協力は、日本自身が自らの決議に反する行為に走ることを意味する。

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