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2015年9月 7日 (月)

書評:被爆者の記憶と国際政治の間の往復運動

(奥田博子「被爆者はなぜ待てないか―核/原子力の戦後史」への書評)

 主タイトルを「被爆者はなぜ待てないか」とし、副タイトルを「核/原子力の戦後史」とした本書のタイトルは、本書の特徴を象徴的に表している。著者は、強い思いをもって被爆者の言葉に寄り添いながら同時代の私たちがなすべきことは何かと自問する。その答えが被爆者の言葉の中にある訳ではない。著者は核を巡る戦後の国際政治を分析し問題のありかを客観的に解明しつつ指針を見出そうとする。このような被爆者の記憶と国際政治の間の往復運動こそが本書の大きな特徴となっている。著者が「俯瞰的かつ虫瞰的な視点」と呼んでいるものがそれであろう。
 序章と終章を含めて11章から成る本書のちょうど真中に第5章「被爆者の『声にならない声』」が置かれる。この構成は、やや唐突な印象を与えたが、全章にちりばめられている多くの被爆者の言葉では逸散する虞のある被爆体験の全体像をこの章で組み立てており、結果として本書において効果的な働きをする章となった。
 著者が述べているように、「被爆者はなぜ待てないのか」というタイトルは、米公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングの著書『黒人はなぜ待てないのか』から来ている。著者は、「被爆者とは誰か。被爆者は何を待つのか。そしてなぜ待てないのか。」という問いを投げかけることから本書を始めた。そして、書き上げた内容を総括しながら、その回答を示すことによって本書を閉じている。
 「誰か」という問いに対して、著者は、広島、長崎における国境を越えた被爆者のみならず、原水爆が作られるまでのウラン採掘、研究・開発・実験などすべての段階で生み出された被曝者、核実験場周辺住民の被曝者、さらには「核(兵器)開発のために『人体実験』の対象にされた民間人やスリーマイル島、チェルノブイリ、福島といったさまざまな原発事故に偶然居合わせた人びと」などを数え上げた。
 「何を待つのか」という問いへの答えは、直接的な記述ではないが、核兵器の禁止と廃絶のみならず脱原発を含む「核なき世界」、さらには「戦争のない世界」の実現であり、そのために必要な政治党派を超えた自発的な市民運動の継続である、と述べているように思われる。
 「なぜ待てないか」という問いへの著者の答えは、前の2つの答えと違って暗示的である。著者は問いと同じキングの著書から引用して「正しいことをおこなうためには時期はいつも熟している」からである、と答えている。この暗示の背後に、読者は「悪意のひとびとのほうが、善意のひとびとよりも、ずっと効果的にときを利用してきた」という時間の経過に対するキングの思いと、広島、長崎、ビキニ、福島を経験した日本の市民こそが、今という切迫した核時代において「日本政府に政策転換を迫っていくべきときなのである」という著者の主張を汲み取ることができる。
 著者の思索における往復運動が、実践とアカデミズムとの往復運動によってさらに豊かな実を結ぶことを期待したい。(2015年9月7日、『公明新聞』掲載)

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