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2011年1月 4日 (火)

見えない世界の人々とつながる

(親鸞750大遠忌浄光寺しおりのために書く)

手探りの半生
 私は浄光寺の次男として生まれました。1956年に洲本高校を卒業してから物理学を志して東京の大学に入りました。大学を卒業するときに自分が何をしたいのかが定まらないまま、とりあえず大学院に進学し博士号を得ました。しかし、学ぶうちに大学の学者世界に強い疑問を抱くようになりました。
 日本は高度成長期に向かっていました。日本の物理学はそれなりの国際水準にあったと思いますが、私に我慢がならなかったのは「良き学者たち」の姿でした(ナチス・ドイツに従順にしたがった善良なドイツ人は後に批判を込めて「良きドイツ人」と呼ばれました。)恵まれた学者や学者の卵たちは、マイカーを持ち始めていました。週末には、出来たばかりの高速道路をマイカーで走り、冬にはスキーを積んで雪道を走っていました。昼食時はそのような会話で賑わっていました。欧米の中産階級の生活スタイルが、大学エリートたちに浸透し始めていたのです。その頃、日本では、公害が社会問題となり、軍事同盟である日米安保条約や米軍基地問題が社会問題になっていました。
 「海賊版」という言葉をご存じでしょうか。現在の中国で有名ブランド品やキャラクター物品を闇で作って売っていることが問題になっていますが、そのような闇出版の本が「海賊版」です。私の周辺にいた大学の裕福なエリートたちは、洋書の海賊版のブローカーでした。専門分野の誰もが欲しがる高価な洋書を著者の許可も版権もなく闇業者に作るよう勧めます。さすがにエリートたちが業者から謝礼を得ていたとは思いません。自分が読みたい、作れば売れるという感覚から勧めたのです。マイカーを走らせている、当時では優雅な生活があるのに、海外の研究者の労作を海賊版で買うことが当たり前のように行われていました。これはほんの一例に過ぎません。学問をすることと自分が人間としていかに生きるかという問いとは無関係であり、大学は「学問の自由」という美名で守られた小さな特権世界を作っていたのです。
 私は別の生き方をしたいと思いました。
 その後、さまざまな壁に突き当たりながらも、志をもって別の道を歩み始めました。米国に留学したり、企業の研究所に入ったり、大学で物理を教えたりしながら、42歳のときに決断をして全ての職を辞して、反核・平和・人権運動に身を投じることになりました。それから15年経って、やっと現在のNPO法人ピースデポを設立することが出来ました。ピースデポの「デポ」というのは、物資を貯蔵し輸送する拠点を意味する英語です。ですからピースデポは「平和のための倉庫」です。私たちは「市民の手による平和のためのシンクタンク」と呼んでいます。政党や大組織によるのではなく、市民一人ひとりの会費やカンパで運営されている、この種では今でも日本でただ一つの団体です。

一人ずつの「世界」と出会う
 自分なりの生き方を選択することを言葉に表すために、小さな同人誌を出したのが32歳のときでした。それから40年以上が経ちました。40年を振り返ってみると、私はずっと見えない人々と向かい合って生きてきたことに気付きます。それは、私が想像によって心に描いた世界に住む人々です。その後、人々と実際に会うことができた人々もいますし、まだ会えない人々もいます。会いたいと思わない人々もいます。
 実際には、市民運動の中でさまざまな人たちと出会いました。大工さん、うずら屋さん、設計士さん、公務員、学生、ジャーナリスト、学校の先生、労働組合員、主婦、会社員、高級官僚、市会議員、国会議員、お坊さん、牧師さん、大学生などなど。直接に会わなくても、ミニコミを通じてさまざまな人たちの肉声に触れて来ました。それ自身、かけがえのない経験であり感謝すべきことに違いありません。けれども、ある作家が言ったように、私も含めて、どの人間にとっても、世界はその人を中心に回っています。
 私にとっては、ある人との出会いは、その人そのものよりも、その人を中心に回っている世界との出会いでした。その世界が、私を刺激し、批判し、鼓舞し、支えて来たように思います。たとえば、私はこれまでに数え切れないほど韓国を訪れていますが、最初に韓国の土を踏むまえに、私の心の中には無数の韓国の人々が棲んでいました。本で読み、話を聞いて知った人々です。70~80年代、韓国の独裁政権と闘い、民主化のために投獄され、命を失った無数の有名、無名の人たちです。私は、日本は韓国の独裁政権に加担するな、経済侵略するな、植民地支配を悔いよ、と日本国内で闘っていました。7年ほど経って、やっと訪韓がかなったときに初めて想像上の人々の何人かと会いました。そうすると、その人たちを中心に回っている世界を、私はあらたに発見します。
 このようなことが、フィリピンで、タイで、香港で、そしてインド、バングラデシュ、モンゴル、オーストラリア、アメリカ西海岸、アメリカ東海岸、カナダ、ジュネーブ、そしてウィーンで起こりました。体力が衰えてペースは落ちましたが、今もこの無限運動は続いています。
 数年前から、私は世代の違う若者たちと同じような出会いを始めたいと思うようになりました。手探りでチャレンジをしている若い人を中心に回っている世界と出会うことが、私の人生を閉じるまえに必要だと感じたからです。今度は、私が彼らと出会うのと同じように、若い人たちが、私を中心に回っている世界を彼ら特有の感性で感じとってもらうことが出来たらと願っています。これは欲張りすぎでしょうか。そのため出会いの学校「さい塾」を始めました。「さい」は「際」です。漢和辞典を引くと「山と山が重なり合うところ」を意味します。日々はインターネットで結ばれ、ときどき顔を合わせます。
 この拙文が、生家である浄光寺の「親鸞聖人750回大遠忌法要」の「しおり」にふさわしい読み物かどうか、私には分かりません。ただ、動乱期の革命家であった真の宗教者・親鸞への敬愛の念がこの拙文とつながっていると、私なりに感じています。(2010年師走)

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