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2009年9月21日 (月)

「核持ち込み密約」とデンマークの教訓

 日本でも、いよいよ核兵器持ち込みに関する日米の密約問題の解明が始まろうとしている。解明それ自身の問題とともに、解明後どうするのかという今後の方針が重要であるが、ともかくも先ず公明正大な解明を実現する必要がある。岡田外務大臣が、外務省内の調査をまず命じたのは画期的なことであるとともに、まずは妥当なアプローチである。次の段階において第三者機関による調査が行われる必要が出てくる可能性が高いであろう。そのときのために、同様な状況に置かれたデンマークが1995~97年に行った調査について過去に書いたものを、以下にまとめておきたい。

◆「核持ち込み密約」デンマークの教訓-真相究明が国民的和解の基礎

 7月はじめにバークレー(米カリフォルニア州)のノーチラス研究所を訪問したとき、デンマーク出身のハンス・クリステンセンから、重要な話を聞いた。
 デンマーク領グリーンランドのツーレ空軍基地で1968年に起きた核兵器事故は有名である。パトロール任務中の米国の戦略爆撃機B52が緊急着陸に失敗し、水爆4個を積んだまま炎上して、プルトニウムをまき散らした。アザラシ猟の猟師や汚染除去にかり出された建設労働が、知らないまま被曝して近年になっても国家補償の問題が続いた。
 今回の問題は、この事故がデンマーク政府が米国の核兵器の領土内持ち込みを拒否する政策をとっているなかで発生したことに関係する。つまり、核兵器が存在するはずのないところで、核兵器事故が発生したのである。その意味で、沖縄沖で水爆1個を水中に落下させる事故を起こした後、そのまま横須賀に寄港した1965年12月の米空母タイコンデロガ
事件と似ている。
 デンマークでもそれ以来、核持ち込みの密約問題が、ずっと政治争点となってきた。デンマーク市民は政府は嘘をついているという不信感を増幅させてきた。
 その状況に転機をもたらすことが、1995~97年に起こった。それは、1995年、デンマーク政府が、米国に核兵器の持ち込みを容認していたことを示す1957年の極秘の公文書が暴露されたのである。政府が、国民への説明と米国への態
度を使い分けていた二枚舌の政策が暴露されたことになる。
 ここまでであれば、事情は日本とそっくりであると言える。
 しかし、日本とちがってデンマークでは、政府が国民の積年の疑惑を清算するために、独立の民間研究所「デンマーク外交政策研究所(DUPI)」に外交文書の閲覧を許し、真相究明を委託したのである。1年半をかけて1997年1月17日、DUPIの「ツーレ事態白書」が発表された。白書は、すべてが明らかになった訳ではないとしながらも、1957~68年のあいだ、社会民主党、自由党、急進自由党など歴代の首相や閣僚の多くが、米国の核兵器持ち込みを知りながら国民を編していた可能性が濃厚である、という調査結果を明らかにした。
 クリステンセンによれば、米国はこの真相究明措置を妨害するどころか歓迎したという。
 日本政府が、核兵器政策において国民の信頼をとりもどすためには、日本においても中立機関による真相究明が不可欠であろう。米国の戦術核兵器が撤去されている現在が、その好機である。
 その意味で、デンマーク語の堪能な人による経過の正確な調査が望まれる。(「核兵器・核実験モニター」第96-97号、99年7月15日号)

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅰ)
 問題意識と発端-ツーレ事故とタイコンデロガ事故

       
政治のウソを正す力
 日本の市民社会に人権や公正といった基本理念が根を張らないばかりか、とみに希薄になって行く背景には、政治のウソが正されないままスキャンダルが闇に葬られることが繰り返されてきた歴史がある。最近の松岡農水大臣の自殺で幕引きとなった事務所費問題や、大きくは沖縄返還にまつわる日米の密約問題などはその氷山の一角である。私たち自身も大きな政治のウソを直接的に経験してきた。それは、核兵器持ち込み問題に関するさまざまな隠蔽スキャンダルである。
 筆者は日本社会におけるこの状況は、政治家の資質の問題もあるであろうが、その根底に日本の市民社会における「社会的知力」の弱さに起因するところが大きいと考える。「社会的知力」とは、教育機関、研究機関、言論機関など知的生産に関わる人たちの批判力、持久力、組織力が総合して発揮される層としての知的力量である。日本における公文書管理制度、情報公開制度の未熟や知識層に自立的社会関与を可能にする社会制度の未発達(NGOの財政基盤の弱さはその一例である)などは、このことと表裏一体の関係にあると思われる。
 筆者は、かねてから核兵器持ち込み問題に関する政府のウソが、政府自身の決断によって解明されていったデンマークの例に関心をもってきた(注1)。デンマークで核兵器持ち込み問題を追及してきた友人のハンス・クリステンセン(現在、アメリカ科学者連盟(FAS))は、決して全てが解明されているわけではないことを強調している。確かにその通りである。しかし、少なくともグリーンランド(デンマーク領)のツーレ空軍基地における水爆搭載機墜落事故を契機に、この問題についてのデンマーク社会として主体的なけじめを付けようとした経過は、日本と比較してはるかに強いデンマーク社会の「社会的知力」を印象づけた。直接的には政府のアクションが必要であることは言うを待たないが、それを可能にしている社会的な力に目を向けなければならない。
 そこで、デンマークにおけるツーレ核兵器事故と日本におけるタイコンデロガ水爆落下事故を比較しながら、その解明過程における両国の違いについて考えたいと考えた。本論の問題意識はそのようなところから出発している。本論の著者の一人(梅林)は、ながく日本における核兵器持ち込み問題に取り組んできた。著者のもう一人(大滝)は、デンマーク語を多少嗜み、本論が多く依拠する白書「冷戦下のグリーンランド」(注2)(以下、「ツーレ白書」)の原典を参照することができた。本論はそのような両者の協力によって執筆された。

二つの事故
 まず、いずれも米軍の水素爆弾がかかわるタイコンデロガ号事故とツーレ事故について簡単に復習しておく。

 1981年、米国防総省は32件の核兵器事故(コード・ネームで「ブロークン・アロー」と呼ばれる)を公表した。その中にはこの2件も含まれていた。しかし、タイコンデロガ号の事故は場所も内容も特定されていなかった。国防総省はそれぞれの事故を次のように発表した。

►1965年12月5日/A4/太平洋の海上
 核兵器1発を搭載した1機のA4攻撃機が、米空母のエレベーターから海に転落した。乗員、機体、及び兵器は回収できなかった。事故は陸地から500マイル(800km)以上離れた海上で起こった。

►1968年1月21日/B52/グリーンランドのツーレ
 ニューヨーク州プラッツバーグ空軍基地を出発したB52爆撃機が、基地着陸のためのアプローチの途中、グリーンランド・ツーレ空軍基地滑走路の南西約7マイル(約11km)に墜落、炎上した。乗組員7人のうち6人が生存。爆撃機は核兵器4発を積んでいたが、すべて火災で破壊した。墜落は氷山上であったが、地域で若干の放射能汚染があった。4か月にわたる汚染除去作業において、237,000立方フィート(6,500立方メートル)の氷、雪、水が米国の認可された貯蔵場所に運ばれた。墜落による汚染の総量は不明であるが、汚染除去が完了した後の地域の環境標本は正常値を示した。デンマーク政府の代表が汚染除去作業を監視した。

 ツーレの事故は隠すことのできない汚染を伴うものであり、詳細を偽りながらも事故の存在そのものは発生時からデンマーク市民に公知となった。それに対して、タイコンデロガ号の事故は、上記のように具体的な情報はすべて隠蔽された。のみならず、後述するように場所は偽って発表された。事実が暴露されたのは、23年以上も経過した後であった。米国の環境保護団体グリーンピースの研究員ジョシュ・ハンドラーが米海軍の核兵器事故を調査する目的で航海日誌を読んでいるとき、攻撃型空母タイコンデロガ号が日本近海で起こした事故であることを突き止め、89年5月にワシントンの記者発表したのである。それによると、事故はベトナムの北爆任務に就いていたタイコンデロガ号が横須賀に向かう途中、奄美群島沖永良部島の東方約130kmの海上で起こしたものであった。
 証拠を突きつけられた米国防総省は事実であることを認め、800kmという距離は中国大陸からの距離であると言い訳をした。暴露された事実は日本で大きく報道され、日本全体を揺るがした。
 放射能汚染による環境や人命の問題、また事故が証明した核兵器の安全性の問題が大きな関心事であることは当然であるが、その他にこの二つの事故には共通する重大な政治問題が含まれていた。両国とも強い反核世論があり、それを背景に両国政府は核兵器の持ち込みを禁じる非核政策を採用していたのである。にもかかわらず、二つの事故は、少なくとも核兵器がその時点で持ち込まれようとしていたことを示していた。さらに、当然のことながら、核兵器が爆撃機や空母に搭載されていたことが、事故によって偶然に明るみに出たに過ぎず、実は核兵器の持ち込みは常態化していたとのかねてからの疑惑に根拠を与えることとなった。

事故直後のデンマーク政府
 デンマークにおいては、57年5月26日にデンマーク政府と主要3党との合意で、政府は「デンマークは(米国から核兵器の持ち込みの)申し出を受けたことはないし、もし申し出があっても受容すべきでない」旨の声明を出すことに合意した。そして、同年5月29日、H.C.ハンセン首相兼外務大臣は次のような宣言を出した。これが、デンマークの非核政策の定式化であった。
 「デンマークへの先端兵器の輸送に関する(米国との)交渉の間、核兵器の持ち込みについての申し出はなかった。もし申し出があったとしても、現状では受け入れるべきではないというのが政府の見解である。」(「ツーレ白書」第1巻401ページ)
 日本においては、タイコンデロガ事故の当時にはまだ非核三原則の形での定式化はされていなかったが、核兵器持ち込みを拒否する政府の政策はすでに国会で確認されていた。その議論はデンマークの議論と時期的にも内容的にも酷似している。すなわち、57年2月8日に衆議院予算委員会で和田博雄(社会党)議員、同11日に川上貫一議員(共産党)の質問に答えて、岸信介首相は明確な答弁を行っている。
 「私はこの原子部隊を日本に進駐せしめるというような申し出が(アメリカから)ありました場合においても、政府としてこれに承認を与える意思はもっておりませんから、そのことは明瞭に申し上げます。」(57年2月8日)
 「アメリカは(核兵器を)もしも持ち込む場合には日本と相談するということを申しておるわけであります。それでさらに突っ込んで、もしもそういう相談があったらどうするというお問いでございましたので、私はこれを承認する意思はないということをはっきり申し上げたのであります。」(57年2月11日)
 ツーレ事故の直後、デンマーク政府は、事故が政府政策が虚偽であったこと示すことがないように慎重に事実を選んで報道しようとした。米国も公にはそれを黙認した。つまり、事故を起こしたB52は火災という緊急事態に陥ったために、ツーレ基地に接近したのであり、グリーンランド上空の通過を定常的に行っていたわけではないと暗に印象づけようとした。当時のクラーク首相は、事故の翌日(1月22日)次のような声明を発した。
 「よく知られている事実であるが、デンマークの政策通り、デンマーク領域には核兵器は存在しない。これはグリーンランドにおいても然りであり、したがって核兵器を搭載した航空機のグリーンランド上空飛行はできない。しかし、米国の航空機が緊急時においてグリーンランドに着陸を試みる可能性を排除できるものではない。」(注3)
 しかし、この声明の内容はウソであった。たまたまのウソではなくて、実はデンマークの非核政策の核心部分に存在する継続的なウソであった。やがて1990年代に入って核兵器の持ち込みを容認していた「ハンセン文書」(H.C.ハンセン首相の米大使あてのメッセージ)の存在を政府が認め、政府自身の手によってウソが解明されることになる。
 その過程と内容については次回以降に述べる。(梅林宏道、大滝正明「核兵器・核実験モニター」第285号、07年8月1日)

感謝:執筆に当たっては、ハンス・クリステンセンにいろいろ協力を頂いたので、紙面をかりて感謝を表明したい。


1 「核兵器・核実験モニター」第96-97号(99年7月15日)参照
2 デンマーク国際問題研究所(DUPI)「冷戦下のグリーンランド--1945-68におけるデンマークと米国の安全保障政策」(1997年)。この白書は2巻より成り、第1巻は分析(614ページ)、第2巻はデンマーク及び米国の公文書のコピー(473ページ)と条約文テキストを収めている。また、第1巻の最終章(第18章:要約と結論)は英語版も作成されている。
3 「ツーレ白書」英語版「要約」32ページ。

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅱ)
 デンマーク政府の決断─半独立機関に解明を委託

核疑惑は続く
 ツーレ水爆搭載機墜落事故の直後には、デンマーク政府は政府の従来の説明との辻褄合わせを試みたことは前回(本誌285号)に記したとおりである。つまり、グリーンランドを含むデンマークのあらゆる領域で核兵器が不在であるというデンマークの非核政策は米国によって尊重されており、事故は緊急避難の状況でツーレ飛行場に迂回する途中に発生したやむを得ない事態であった、という説明をデンマーク政府は押し通した。「ツーレ白書」によれば、当時は、政府説明の真偽を追求するために過去を暴くというよりも、以後の非核政策を揺るぎないものとして再確認するということで、議会も世論も矛をおさめる状況があった。その最大の理由は厳しい冷戦下にあって、過去を暴くことはソ連の脅威から自国を守るのに得策ではないという判断があったと白書は指摘している(注1)。事件から数ヶ月後に、米国とデンマークの間で新たに合意(非公開)が交わされ、68年5月31日にデンマーク政府はその内容を報道発表した。発表は次のように締めくくられていた。
 「ワシントンにおける協議は、1951年のグリーンランド防衛協定とデンマークの核政策の間の調和を確立し、それによって同政策がグリーンランドにおいて国際法の下に遵守されることを保証している。」(注2)
 しかし、ジャーナリズムと専門家の間では、この合意によって過去の問題が不問に付されることはなかった。このようなジャーナリズムと専門家における関心の持続という点に関しては、日本においても大きな違いはないように思われる。この点に関しては別の場所で考えることにしたい。
 冷戦後の1990年代に至るまで、デンマーク社会では三つの側面から、非核政策の真相解明が話題となってきたと思われる。一つは1980年代に世界的な関心事となった軍艦搭載の核兵器の寄港問題である。非核政策をとったニュージーランドのロンギ政権が1985年に米海軍駆逐艦ブキャナンの入港を拒否し、1987年には非核法を制定したことは、その時期を象徴する出来事であった。デンマークでも1988年4月14日、議会が「入港する艦船にデンマークの非核政策を周知させることを政府に命じる」内容の決議を採択したことが大きな政治問題になった。第二は、冷戦後に進展した米国における歴史公文書の機密解除である。とくに米戦略軍の機密解除によってグリーンランド上空における水爆搭載爆撃機の警戒・監視飛行の実態が明らかになった。第三は、ツーレ事故における被曝兵士や汚染除去作業労働者の補償要求である。補償問題は、必然的に事故に対する政府の説明責任を問うことになった(注3)。

政府の内部調査
 1993年に機密解除された米空軍文書によれば、1960年代、米国戦略空軍爆撃機はグリーンランド上空を日常業務として飛行(ルーチン飛行)していた。その詳しい内容は「白書」などにしたがって後に詳しく説明するが、それは、「緊急事態にたまたまツーレ基地に緊急避難するに過ぎない」という政府の説明に明らかに反するものであった。
 このような状況に、ツーレ事故で被曝した基地要員からの圧力が加わって、デンマーク政府は政府内にある文書の内部調査を行うこととなった(注4)。その後の展開の中で、この政府判断は重要な意味をもっている。これが、「ツーレ白書」(注5)を生むことになった、より包括的な調査へと政府が決断する複線となっていると考えられるからである。そしてこの政府判断の中に、我々は日本では起こらなかったデンマーク社会の「社会的知力」の一つの現れを見る。つまり、政府見解を表明するに当たって、政府が保有する公文書を再調査して、その根拠を背景に世論、とりわけ議会への説明を行おうとしたのである。ここには文献を尊重する文化的基盤が有効に働いている。さらに言うならば、文献は人の歴史の遺跡と考えるが故に尊重される人間主義が横たわっているように思われる。政治的駆け引きが当然にも働いているのであるが、文献主義が介在することによって、駆け引きの土俵がより理解可能であり、より民主主義過程にそったものになる。
 内部調査の結果、デンマーク政府は、非核政策の侵害があったことを確認する文書が発見されたと述べ、その侵害が発生した理由が文献的に明らかになったことを報告した。調査の結果は、4ページの報告書として1995年6月29日に政府によってデンマーク議会に提出された。政府報告書の全文は公開されていないが、その内容は、デンマーク政府による説明によって明らかにされた(注6)。それは、核兵器搭載の米空軍爆撃機がグリーンランドの上空を通過していたことを確認し、その責任は米国にあるのではなくて、故人となったデンマーク元首相H・C・ハンセン(1960年没)が米国に暗黙の承認を与えたことに起因していると述べた。ここに後に全文が明らかになる「ハンセン文書」が初めて登場し、デンマーク政府はデンマークの非核政策が侵害される元凶と位置づけたのである。「白書」はこの4ページの政府報告書を読んで作成されているが、そこには次のような報告書からの短い引用がある。
 「(前略)H・C・ハンセンがコメントをせずに情報(協定?)に対する米国の解釈を受け入れたという状況により、ツーレに核兵器を貯蔵できるという権限を米国が持っているという解釈が可能になった。(後略)」(注7)
 しかし、事態はこれで収まらなかった。政府報告書が発表されて間もなく、デンマークを訪問したペリー米国防長官と会見した後の記者会見で、ペテルセン外務大臣は、「核兵器搭載機のグリーンランド上空飛行はあったが、核兵器が地上配備されたことは決してない」と報道陣に応えた。それに対して数日後の1995年7月13日、米国政府はデンマーク政府に対して、調査の結果の最終報告だとして「ツーレ基地には2つの時期に核兵器が配備されていた」という極秘の手紙を送ったのである(8)。デンマーク政府は手紙を非公開にしたが、内容は折に触れて公表した。やがて政府内部からリークされ、「非公式英訳」が全文公開されている(注9)。

調査委託に踏み切る
 このような混乱の中で、デンマーク政府は第三者機関に事実解明を委託することを決定した。すなわち、1995年8月8日、デンマーク政府は、新たに設立された半独立機関「デンマーク国際問題研究所(DUPI)」(注10)に調査委託を行い、DUPIは約1年4か月後の96年12月17日に報告書を完成し、97年1月17日に報告書を外務大臣に提出した。報告書は「冷戦下のグリーンランド─1945-68におけるデンマークと米国の安全保障政策」と題され、しばしば「ツーレ白書」と呼ばれた。政府からの委託に関して、「白書」は次のように説明している。
 「委託任務に規定されているように、DUPIの仕事は、核兵器を搭載した米国のグリーンランド上空飛行とそれとの関係におけるツーレ航空基地の役割について、歴史的概観(白書)を著述することであった。カバーすべき期間は1945年から1968年までであった。政府はまた、報告書が、その期間の安全保障政策や国際関係の分野における一般状況のみならず、当時の意思決定過程も取り上げるように要求した。」(注11)
 さらに注目すべきことは、この調査を引き受けるに当たってのDUPIの態度であった。「白書」は次のように書いている。
 「1995年10月の最初の会議において、DUPIの新理事会は、専門家として正当化できるようなやり方で仕事を完成できるであろう、という結論に達した後に委託を引き受けた。受託の根拠として、DUPIはデンマーク政府公文書庫に存在するすべての関係資料にアクセスできるという仮定があった。さらに、後に他の研究者が同じ資料にアクセスを許される、ということも前提とされた。」(12)
 つまり、半独立機関としての特権的地位の下で報告書が作成されることの特殊性を十分に考慮した検討が行われた点が重要である。国家機密がどこまで許されるかという根本問題の解決にはまだ長時間を要するであろう。その状況において個別具体的な問題解決のために専門家として公正な仕事を行うときの条件確保として、DUPIは、機密文書に接する権利と後の研究者にも同様な権利が与えられることを確認した上で調査を受託したのである。
 本論文で検証することはできないのであるが、「白書」は「デンマーク公文書庫の資料へのアクセスは一般的に満足のできるものであった」(13)と述べている。また、米国の公文書について広範な調査を行ったが、特権的なアクセスは許されなかった、とも述べている。
 いずれにしても、極めて限定した任務を設定した調査委託ではあるが─そのこと自身が一つの工夫であり、意味深い─デンマーク政府の調査委託の決断と、それを受けた専門家集団としてのDUPIの態度は、デンマークの民主主義の一つの到達点として十分に注目に値する。これによって、デンマーク社会はツール事故の背後にあったデンマーク政府のスキャンダルを乗り越える自浄能力を示したということができる。DUPIの組織的性格は、日本における「国際問題研究所」と似通っているが、政府の側にも研究所の側にも、残念ながらデンマークの場合と大きな違いがあると感じざるを得ない。(梅林宏道、大滝正明「核兵器・核実験モニター」第288号、07年9月15日)


1 「ツーレ白書」英語版「要約」10ページ。「ツーレ白書」については注5参照。
2 同上。
3 この部分は、ハンス・クリステンセンの諸論文を参考にした。たとえば、「都合次第の秘密主義─米国の核兵器配備とデンマークの非核政策」http://www.nautilus.org/archives/nukepolicy/Denmark/index.html。また、http://www.nukestrat.com/dk/indexdk,htm
4 ハンス・クリステンセン「ご都合次第の秘密主義─米国の核兵器配備とデンマークの非核政策」
5 デンマーク国際問題研究所(DUPI)「冷戦下のグリーンランド─1945-68におけるデンマークと米国の安全保障政策」(1997年)を通称「ツーレ白書」と呼ぶ。白書は2巻より成り、第1巻は分析(614ページ)、第2巻はデンマーク及び米国の公文書のコピー(473ページ)と条約文テキストを収めている。また、第1巻の最終章(第18章:要約と結論)は英語版も作成されている。
6 政府報告書の記述内容は項目的に「白書」第1巻序(15ページ)に列記されている。
7 「ツーレ白書」第1巻、279ページ。
8 「ツーレ白書」第1巻、15ページ。
9 http://www.nukestrat.com/dk/USletter95.PDF
10 DUPIは、2002年12月31日に活動を停止し、その研究活動は新しく誕生した独立研究機関「デンマーク国際研究所(DIIS)」に引き継がれ現在に至っている。
11 「ツーレ白書」英語版「要約」7ページ
12 同上。
13 同上。

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅲ)
 ハンセン文書─首相が核持ち込みを暗に容認

ハンセン文書を公開
 前号に記したように、政府の委託を受けたデンマーク国際問題研究所(DUPI)は、97年1月にいわゆる「ツーレ白書」を提出した。
 「ツーレ白書」が解明しようとした一つの重要な点は、デンマーク政府内の非核政策の取り扱いが、冷戦下でどのような意思決定プロセスを経て行われてきたかという点であった。
 この点を論じるのに、決定的に重要な位置を占めるのが「H・C・ハンセン文書」と呼ばれるものである。その存在は、前号に書いたように95年6月29日に政府によってデンマーク議会に対して提出された報告書の中で明らかにされていたものである。デンマーク政府はハンセン文書がアメリカに核兵器持ち込みを許した元凶であると位置づけた。
 「ツーレ白書」は、初めてその全文を公開した。資料として「H・C・ハンセン文書」の全訳を文末に掲げた。それは、1957年11月16日にデンマーク首相H・C・ハンセンから米国大使バル・ピーターソンに宛てた非公式メッセージである。
 「ハンセン文書」において、H・C・ハンセンは、米国が「特殊弾薬の備蓄を置く可能性」という表現で米国の核兵器持ち込み問題を話題としながら、具体的提案がないという理由で、米国からのいかなる質問に答えることも慎重に避けている。そして、1951年のグリーンランドに関する協定の解釈について、「備蓄品を貯蔵し、地区の防護に備える等の権利」、「資材、備蓄品等の検査なしの持ち込みの自由」という米国の立場を一般論として確認している。このようにして、H・C・ハンセンは米国が核兵器の配備についても協定上の合意があるという立場をとることを可能にした。

「ハンセン文書」に至る経緯
 第1回(285号)で書いたように、デンマークの非核政策が定式化したのは1957年であった。社会民主党は、1957年5月の議会選挙前の運動期間中にデンマークへの核兵器配備に強力に反対していた。そして5月末の選挙後、米国の核兵器配備の申し出があっても受け入れを拒否することが、社会民主党、急進左翼党、および正義連合間で合意として書面化され、これが連立政権の基盤となった。首相兼外相H・C・ハンセンは、議会において新政府の政策発表をしたときに、「現状において」という但し書き付きながら、核配備の申し出を拒絶すと述べた。その背景には、ソ連からの脅迫めいた警告があったことを見逃すことができない。選挙前の57年3月にデンマークが米国の通常弾頭のナイキおよびオネスト・ジョンの両ミサイルの配備を原則的に受け入れたとき、ソビエト連邦首相ブルガーニンから「デンマークほどの小国が外国勢力の基地を設置する可能性を許すことは核戦争勃発のときは自殺行為となる」との書簡が届いていたのである。書簡には、グリーンランドが米国の軍事基地となっているとも述べていた。
 このように、デンマークの反核政策の基盤にある発想は、同国がソ連にきわめて近接した位置にあるという地理的な条件の考慮である。東西間の戦争が勃発した場合に、ソ連に近接するデンマークは緒戦で東側の核兵器によって壊滅的打撃を受けることを恐怖していたのである。この点で、被爆国である日本の非核政策とは発想を異にしていることに注意したい。
 一方、米国では米国務省と国防総省が57年6月21日以来、デンマークへの核兵器配備について内部協議を重ねていた。この時点では米国政府は、51年のグリーンランド防衛協定は緩やかなもので核兵器の配備・貯蔵を許容するという見解を抱いていたと思われる。そして、問題のポイントは、核兵器配備の容認をデンマークに尋ねることが賢明かどうかであった。コペンハーゲン駐在のバル・ピーターソン大使は、「尋ねるべきである」と両省に助言した。米政府は結局ピーターソン大使が示唆した方法に従うことに決定し、ピーターソン米大使自身がデンマーク首相と接触することになった。
  1957年11月13日および18日に、デンマーク首相H・C・ハンセンは米国大使バル・ピーターソンの訪問を受け、会談が行われた。2人の会談の記録は米国の文書に記録されている。それによれば、デンマーク首相は「厳密に個人的な意味で」この問題についてノートを取り、その他に何のコメントもなさなかった。米国務省は、核配備を行ってもよいとの示唆を受けたと結論付けた。米大使は、また、首相はこの問題について現在も今後も一切公表しないと言う固い決意を抱いていると報告している。
 デンマーク側には会見に関する議事録もそれに類する書類も存在していない。このできごとについて唯一知られている同時代のデンマーク側の文書は、外務事務次官ニルス・スベニングセンが手書した覚書だけであり、「米国大使バル・ピーターソンに対するH・C・ハンセンからの(非公式の)メッセージ」と題されており、日付は1957年11月16日だった。これが、1995年に公表され、注目を集めた、「H・C・ハンセン書簡」または「H・C・ハンセン文書」と呼ばれるものである。それは2つのコピーのうちの1つであるが、もう一方は米国大使に手渡されたのだが米国の公文書館では発見されなかった。

隠然たる波紋
 「H・C・ハンセン文書」が起草された正確な状況は、きわめて不明な点が多い一方、この書類がどのように理解され、何をもたらしかかについては、多くの証拠がある。
  1957年12月のNATO首脳会談でデンマークは米国の核兵器配備を拒絶する政策を掲げていることで批判されると予測されていたのであるが、ダレス米国務長官は、デンマーク首相に個人的な謝意を表明した。「グリーンランドにおける米国の立場について手助けとなる措置」がとられたからである。核兵器の配備は翌年から始まった。
  ダレス国務長官の謝意を述べた機密指定の「覚え書き」は以下のようなものであった。

シャイロ宮殿、パリ
1957年12月18日午前9時30分
デンマーク首相ハンセンとの会話の覚書
 グリーンランドにおける米国の立場について手助けとなる措置が講じられたことについて、私はハンセン氏に謝意を表した。彼もわたしに感謝の意を述べた。しかし、同時に、彼によれば、コペンハーゲンのわが国の大使および国務省のジョーンズ氏がデンマークが不十分な防衛努力しかしていないと批判したことに不快の念を表した。彼は、そのような非難は1回で十分であり、ジョーンズ氏による2回目の非難はくどいと思うと言った。
 ジョン・フォスター・ダレス(注1)

 デンマーク国内において、「ハンセン文書」が、どのような痕跡を残したかは次回に述べる。(梅林宏道、大滝正明「核兵器・核実験モニター」第290号、07年10月15日)


1 「ツーレ白書」第2巻、303ページ。

【資料】
デンマーク首相H・C・ハンセンから米国大使バル・ピーターソンに宛てた非公式メッセージ
(デンマーク政府公文書。1957年11月16日)

 数日前にここを訪れたとき、貴職はグリーンランドの防衛区域に特殊弾薬の備蓄を置く可能性について発言されま
した。
 小職は、貴国政府はこの件について何も問題はないと考えておられると推察します。なぜならば、貴国政府の意見では、この件は1951年4月27日の協定に含まれているからです。協定は次のように述べています。
 両国政府は、グリーンランドにおける責任を遂行するのに必要あるいは適切な措置を取る。
 また、
 米国政府はその備蓄品を貯蔵し、地区の防護に備える等の権利を与えられる。
 また、
 すべての資材、備蓄品等はグリーンランドに検査なしで持ち込まれることを許される。
 貴職はこのような貯蔵の可能性に関して具体的な計画を何ら提出しませんでしたし、この問題に対するデンマーク政府の態度について何ら質問をしませんでした。
 貴官の発言は、小職の側からのコメントを引き起こすものであるとは思いません。

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅳ)
 歪む非核政策─酷似するハンセン合意と大平合意(その1)

核持ち込み黙認の伝承
 1957年11月のハンセン文書によって、米国がグリーンランドへの核兵器配備に暗黙のゴー・サインを得たと理解したことは、米国の歴史公文書から明確であることを前号で示した。一方、デンマーク国内においてそのような理解が政府内に形成されたかどうか、それが歴代政権に伝承されたかどうかが、事実解明にとって重要な関心事である。しかし、「白書」はそれを解明するに足る歴史資料が存在しないことを明らかにしている。
 「ツーレ白書」(注1)の調査結果によれば、デンマーク政府の公文書の中にH・C・ハンセン文書の内容に関する言及を含んだものはほとんどない。
 1968年のツーレ事故までの期間、外務省によって作成されたグリーンランドに関連するデンマークの核政策に関する重要文書リストの中に、ハンセン文書の名前は定期的に現れていた。しかし、リストには内容については何も言及されておらず、しかも当時の分類で「コスミック」(デンマーク語ではコスミスク)に分類される機密文書に指定されていた。この機密指定は、最高度の機密に属し、「知る必要」の原則が適用される。つまり、前もって、きわめて限られた範囲でのみ書類へのアクセスが許される仕組みが作られていた。
 「ツーレ白書」は、H・C・ハンセン文書に直接言及している史料として2つの歴史文書を特定している。クラーク日記(59年8月)と外務省メモ(59年6月)である。

クラーク外相の日記
 58年10月に外相に任命されたイェンス・オット・クラーク外相は、59年8月25日付けの日記に次のように書いている。

 「57年11月、グリーンランドにおける米国の核兵器貯蔵に、H・C(訳注:ハンセン首相のこと)とスべニングセン(注2)が暗黙のうちに緑信号を灯したのは不安だ。その背景には、政府としての判断はまったくなかった。[議会の]外交政策委員会ではなにごとも説明されなかった。わたしはH・Cに、われわれは政府と委員会に関して問題を正すべきだ、と言った。彼は考慮するだろう。難しいのは2年も過ぎてしまったことだ。おそらくわたしには、何が実際に起こったかについてワシントンで何か情報を得て、出てきた情報を何であれ示すことができるかもしれない?」(『ツーレ白書』第1巻、304ページ)

 「ツーレ白書」によると、クラークがこの問題を追求したという証拠はない。しかし、この文書は極めて重要な情報を含んでいる。つまり、少なくともハンセン文書の2年後に、外務大臣はその内容を知っており、政府と議会が内容を共有すべきであると考えていたという事実である。また、その後、ハンセン文書に関係する史料が残っていないことと重ねると、クラーク外相が意図した事態の矯正が行われなかったことが、事実上それ以後の是正の機会を失わせたことを示唆している。結果的には、国民を騙すデンマークの非核政策の二重基準が長期化することにつながるのであろう。

外務省メモ
 もう一つの外務省メモは報道対応を検討する省内作業の中で作成された。
 この時期のデンマークの報道機関はグリーンランドに核兵器が存在することを強く示唆していたため、外務省は報道機関からの質問をどのように扱うかについて議論をした。
 議論は外務省の何らかのグループの中で検討されたはずである。しかし、当時の省内の資料を調査したはずである「ツーレ白書」は、H・C・ハンセン文書の正確な内容について、省内の誰もまったく知らないか、せいぜいきわめて僅かな人数しか知識を持ち合わせていなかった、と結論づけている。そんな中で、59年6月4日付のある文書は、(デンマーク議会の)外交政策委員会で外相が質問をされた場合の回答草稿だと思われるが、それは少なくともH・C・ハンセン文書の本質について知っている者によって起草されたようであった。その文書の本文の日本語訳を資料として文末に掲げる。
 資料を読んで明らかなように、ここには「米国がグリーンランドに核兵器を配備する可能性は否定できないが、米国は通告の義務を負っていない。デンマークの主権を行使して調査することは可能であるが、それを追及しないのがデンマークの利益である」という趣旨が述べられている。これは、極めて率直な問答草案であり、ハンセン文書の内容を踏まえた内容である。
 「ツーレ白書」は、このメモの内容が外交政策委員会、報道機関、その他に伝えられた証拠はまったく発見されなかったとしている。したがって、この内容は外部には出なかったと考えるべきであろう。他方で、クラーク外相はこの書類を目にしたことはきわめて可能性が高いであろう。それが、2か月半後に書かれた上記の日記につながったと考えられる。このような状況の中で、「ツーレ白書」はハンセン文書が一部の人たちの間に留まりながらも、その後の政府の対米・対国民(議会)対処基準として定着していったことを次のように結論づけている。
 「それ(59.6外務省内メモ)を対外的に使用することが禁止されたという事実にもかかわらず、その文書がハンセン文書の(デンマーク)当局としての処遇と解釈として機能していった。(略)
 ハンセン文書は、デンマークにとっても米国にとっても、それ以後の枠組みを形成した。このテーマに関する原則問題に関して、ハンセン文書に匹敵する両国の接触は1968年まで行われなかった。」(「ツーレ白書」英語版「要約」、26ページ)
 ツーレ事故はこのような中で発生したのである。

矛盾に満ちた非核政策の定着
 H・C・ハンセン文書が作られた3か月後には、グリーンランドへの米国の核兵器配備が始まった。99年に明らかになった米国防省文書によれば、58年2月から約8か月間の短期間、少数の核爆弾がツーレに配備された(注3)。しかし、ハンセン文書が米国とデンマークの両政府に沈黙のレールを引いたので、報道機関の関心が続いたにもかかわらず、事態はデンマーク政府に破局的な損失をもたらすことはなかった。
 前述したように、ソ連からの圧力がグリーンランドの核政策の基本的背景として存在しているが、ハンセン文書が公にされず、また米国も支障なくグリーンランドの軍事利用を確保することができたので、デンマークはソ連の非難を同じやり方でかわすことができた。そのやり方というのは、通常、まず非難を否定し、それに加えて批判された措置はまったく防衛的な性格のものだと請け合うものだった。さらに、デンマーク領土をソビエト連邦に対する攻撃のために使用する許可をけっして与えないだろうと、繰り返し強調した。このような外交的な反対攻勢の一部として、60年9月、デンマークは国連において、グリーンランドが均衡のとれた国際的兵器相互査察の一環として査察に供させるべきであると注目すべき提案を行った。この提案は米国も支持したが、それは実現しないだろうというのが一般的な見方であったと「ツーレ白書」は述べている。つまり、ハンセン文書によって進行しているグリーンランドの核兵器を含む軍事利用が損なわれないという見通しがあった上で、外交攻勢がかけられたと言うことであろう。
 一方で、公の場では、57年に定式化されたデンマークの非核政策が周知され、国際的にも定着していった。
 一つの現れ方は、NATOにおけるデンマークの立場であった。60年4月のNATO閣僚理事会で、デンマークの非核政策は同盟国によって留意され、デンマークの政策の構成要素であると見なされるようになった。この背景には「北欧バランス」という考え方があった。58年1月21日にデンマーク議会で非核政策が議論されたときには、ソビエトの関心が「デンマークの属する地域」の防衛体制に向いていることが理由として挙げられていた。その後、北欧諸国が独自の東西の同盟関係を結びながら、北欧全体として東西両ブロックの間で均衡を保つユニークな地域となっているという「北欧バランス」が認識されるようになった。したがって、スカンジナビア諸国のうちの一国が核兵器を入手したり、配備を受け入れれば、その均衡が崩れ去ると考えられ、デンマークの非核政策はNATOでも了承されたのである。
 当然ながら、一方で、デンマークの非核政策を認知することが、NATOの結束を乱す効果が懸念された。そこで、NATO全体の核政策および核戦略を絶対に問題にしないこと、あるいは問題をはらんでいると考えられる場合であってもその決定を拒絶しないことが重要だと考えられた。
 デンマーク国内でも、非核政策遵守の建前がハンセン文書の秘密維持を基礎にして進行したが、紙面の都合でその部分は次回に書くことにする。また、ハンセン文書が辿った経過は、日本における大平・ライシャワー合意(1964年)を想起させるが、それが次回の主要なテーマになる。(梅林宏道、大滝正明、「核兵器・核実験モニター」第292号、07年11月15日)


1 デンマーク国際問題研究所(DUPI)「冷戦下のグリーンランド--1945-68におけるデンマークと米国の安全保障政策」(1997年)のことを「ツーレ白書」と呼ぶ。白書は2巻より成り、第1巻は分析(614ページ)、第2巻はデンマーク及び米国の公文書のコピー(473ページ)と条約文テキストを収めている。また、第1巻の最終章(第18章:要約と結論)は英語版も作成されている。
2 ハンセン文書が作られた、ハンセン首相とピーターソン米国大使の会談に関わったデンマーク外務省高官。
3 「核兵器・核実験モニター」第102号(99年11月1日)。99年にウィリアム・アーキンらが情報公開法によって入手した機密文書「核兵器の保管と開発の歴史:1945年7月-1977年9月」によればグリーンランドには58年から核爆弾が約10か月間配備されていた。また、同年にハンス・クリステンセンが情報公開法で入手した「1958年の戦略空軍の歴史」には、米戦略空軍(SAC)が1958年6月時点で配備していた核兵器の場所を示す完全リストが含まれていたが、それによると、ツーレ配備の核爆弾はMk36型水素爆弾(最大威力10メガトン)であった。(他に弾頭を外した核爆弾も配備されていた。)

【資料】
デンマーク外務省内部メモ
(1959年6月4日)

 (1951年の)協定*には、その地域の安全を保全するために米国が必要であると考える手段に関して、米国がデンマークに伝えるべきだとはどこにも書いていない。言うまでもなく、それはわれわれが情報を入手することができないということではない。なぜなら、デンマーク当局はグリーンランドを自由に移動する当然の権利を放棄してはいないのだから(第Ⅱ条3.b.参照)。しかし、われわれは、合衆国が極秘のうちに核弾薬を配備することができることを非常に重視していること、また、デンマークも含めた西側の安全はこれらの核兵器の貯蔵が攻撃やサボタージュによって破壊されないことに依存していること、核兵器の貯蔵位置はそれ故に大いなる秘密のベールに包まれざるを得ないことを理解している。その理由から、つまり、これはまたデンマークに利益にもつながるので、米国が運営するグリーンランドの特別防衛地域内で、いついつに、あるいは恒久的に、核弾薬が貯蔵されているかどうかを政府は調査すべきであるとは考えて来なかったのである。(出典:「ツーレ白書」英語版「要約」、25ページ)

*米国とデンマークの間で結ばれた「グリーンランド防衛協定」。その解釈において、ハンセン文書は米国が核兵器
を配備することを暗黙の内に認めた。

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅴ)
 歪む非核政策─酷似するハンセン合意と大平合意(その2)

ライシャワー・大平合意
 ツーレの水爆搭載機墜落事故(1968年)がデンマークの非核政策に与えたインパクトを考察するとき、いわゆるハンセン文書が鍵となることを前回までに説明した。ハンセン文書とは、駐デンマーク米大使がグリーンランドへの核兵器配備に関してハンセン首相と会談したときに、ハンセン首相が暗黙の承認を与えた非公式メッセージである(1957年11月)。会談に同席したデンマーク外務次官が、それに手書きのタイトルや日付を書き加えて公文書として保管した。そのお陰で、非核政策の歴史を解明することを決断したデンマーク政府の方針によって、準独立研究所の報告書が作成されたとき、その全文が明らかになった(1997年)。
 日本の非核政府とデンマークの非核政策の対比を考えるとき、ハンセン文書は大平合意を想起させる。
 1963年4月4日にエドウィン・ライシャワー駐日米大使が大平正芳外務大臣を招いて会談した。ライシャワー大使の目的は、日本への核兵器の「持ち込み」に関する事前協議の解釈について日米両政府の間で食い違いがある点を正すことであった。米国側の一貫した立場は、核兵器搭載軍艦の日本寄港や領海通過は1960年の日米安保条約改訂に伴う交換公文(岸・ハーター交換公文)において合意した事前協議の対象となる核兵器の<イントロダクション>には含まれないということであった。ライシャワーは、このことが秘密の協議記録に明記されていることを大平外務大臣に示し説明した。そして、大平外務大臣はそれに納得し、完全に意見の一致をみたと、ライシャワー大使は理解した。
 この会談の内容は、同日にライシャワー大使からラスク国務長官に宛てた長文の極秘電文として米公文書館に残っていた。電文の全文は、2000年4月に不破哲三共産党委員長が国会報告会で配布している(注1)。大平外務大臣と意見の一致があったことを、電文は次のように述べている。
 「我が国の艦船上に核兵器が存在するかどうかという問題について発言することなく(発言を求められることもなく)、私は秘密の協議記録の解釈に関して、合衆国の現行の解釈に完全に沿う形で彼(大平外相)と相互理解に達した。(我々の解釈も、そもそも秘密記録の存在自身も、両方とも彼にとってはニュースであった。)」(注2)
 「大平の反応は素晴らしかった。彼は、自分が(おそらくは池田首相も)合衆国が<イントロデュース>という言葉を使ったときに何を意味するかを理解していなかったことを認めた。しかし、彼はそれを知っても狼狽しなかった。彼は、我が国の艦船上における核兵器の存在に関して肯定も否定もしない、そして同時に、合衆国は条約の文言を遵守することを強調するという我々のやり方に完全に満足しているように見えた。彼は、日本の発表の仕方を急に「訂正」したり、明確に変更したりすることは、この問題にいたずらな関心を喚起することになるだけであるという点で私と同意見であった。」(注3)

空母ミッドウェーの核付き母港
 このようにして、1963年の時点で日本政府は、核兵器の寄港や一時通過を明確に容認した。それ以後、核兵器の持ち込み問題に関して、日本政府は自覚的にこの立場で運用したと考えるべきであろうが、確証はない。少なくとも、9年後の1972年における空母ミッドウェーの横須賀母港に関する交渉において、大平・ライシャワー合意は外務省において意識されていた。その経緯については、本誌でも詳述した通りである(注4)。
 母港化は「核兵器の配置<ステーション>」ではなくて、「頻繁な寄港」に過ぎず、大平・ライシャワー合意から外れた新しい事態ではないと、当時のジョンソン国務次官は当時も外務大臣であった大平正芳外務大臣当人を説得した。ホノルルのクイリマ・ホテルで行われた会談の「会談覚書」(72年8月31日)は次のように記録している。
 「1963年大平外務大臣のライシャワー大使との協議に関する限り、私は状況の変化はまったくないと考えます。日本に船を配置(station)しようとしているのではないのです。家族がそこにいて、前よりも頻繁に寄港するだけの話なのです。」(注5)
 ジョンソンはこの場で大平の合意を求めず、同席した大河原良雄駐米公使が問題を引き継いだ。大河原は帰任し外務省アメリカ局長に着任する予定であったからである。そして、72年10月13日、シュースミス駐日米公使が外務省を訪れ大河原らと会談した。会談の結果をインガソル駐日大使は極秘電報でロジャース国務長官に次のように伝えている。
 「駐日米国史が指摘した1963年協議に関して、大河原は、米政府はどのように理解しているのかと質問した。公使は、一時通過の艦船は日本政府との事前協議が必要な状況を発生させないと米政府は考えている、と回答した。大河原は問題をそれ以上追求しなかった。」
 「外務省の代表は1963年の大平・ライシャワー会談問題には軽く触れただけであり、日本政府は基本的に米政府の要求を受け入れる姿勢であることを示した。」(注6)
 このように、大平・ライシャワー合意を引用しつつ米政府は空母ミッドウェーの核付き母港化を求め、日本政府は黙認したのである。
 しかし、日本政府側において、現在までのところ1960年の「秘密の協議記録」、1963年の「大平合意」、1972年の「核付き母港の合意」を示す公文書は明らかになっていない。前2者に関しては、日本の情報公開法に基づく朝日新聞の開示請求に対して「保有していない」として文書の不存在の回答があった(注7)。最後の文書に関しては、梅林宏道の請求に対してシュースミス・大河原会談に関して1972年10月14日付「横須賀に関連する諸問題」という文書が特定されたが、内容は本質的にまったく非公開であり、核問題が記述されているか否かも明らかではない。
 よく知られているように、日本政府は繰り返し秘密合意の存在を否定している。そして、これらの合意が大平以後の歴代の日本政府に伝達、継承されているかという点に関して、検証する手段が残念ながら今のところ存在しない。恥ずかしいことであるが、日本政府と背後の官僚制度は、それほどいい加減なところがありそうに思われるし、本論が着目している「社会的知力」の未熟さが、そのような状態を許している側面がある。

タイコンデロガ事件の追及
 米国の空母タイコンデロガ号上の攻撃機A4スカイホークが、ベトナムでの北爆から横須賀に向かう帰途に水爆を搭載したままパイロットもろとも甲板から落下し、水没した事故が起こったのは、1965年12月であった。しかし、グリンピースの研究者らが、事故の場所が沖永良部島の東方130kmであったこと、また事故後タイコンデロガ号は横須賀に直行したことを暴露したのは1989年5月8日であった。すなわち、事故が公になった時点において、日本政府内部でライシャワー・大平合意がどの程度意識的に継承されていたかは不明である。
 グリーンピースらの暴露は5月8日の夕刊からマスメディアに大きく報道された。地元沖縄ではとりわけ重大な関心事となった。危険性(爆発や環境汚染)が最初の主たる話題であったが、同時に核兵器の持ち込み問題も焦点となった。この時期すでに、持ち込み問題は、1984年に核弾頭つき巡航ミサイル・トマホークの米艦船上への配備が始まり、その日本への寄港に関連して継続的な争点となっていた。しかし、タイコンデロガ事件は、トマホーク搭載艦による核持ち込み疑惑と比較するとき、ほんど物証に近い形での持ち込みを立証する事例であった。
 水爆1個を水没させた後、他の軍艦と接触することなくタイコンデロガ号が横須賀に帰港したことを示す航海日誌の記述は、核兵器の持ち込みがなかったとする主張と両立するためには、次のような荒唐無稽な説明をするしか仕方がなかったからである。すなわち、空母にはただ1個の核兵器が載っていただけであり、たまたまそれを搭載した航空機が落下事故を起こした。したがって横須賀に寄港した空母には核兵器は載っていなかった。これ自身荒唐無稽であるが、目撃水兵の証言した事故発生当時の訓練の状況を加味すると、これは成り立たない説明であった。
 タイコンデロガ事件についての議論は開会中の国会で直ちに始まった。当然ながらここでは、まず大平・ライシャワー合意が、どのように論じられた、あるいは論じられなかったかが中心関心事である。しかし、航海日誌などの公文書に関して政府や議会がどのような議論を展開したかというテーマも本論全体にとってはもう一つの重要な関心事である。後者については紙面の都合上次回で論じることにする。
 国会議論は5月10日の参議院予算委員会から始まった。核兵器持ち込み問題に関する政府の比較的整理された答弁が登場する部分を引用しよう。
 「…いわゆる核の持ち込みにつきましては、艦船によるものも含めて安全保障条約及びそれの関連取り決めに基づいて事前協議の主題となり、もしもこれが主題となった場合には、我が国はこれに対してノーと言うことを公にしているわけであります。このことは米国の最高首脳が篤と認識しているわけで…今までそのようなことがなかったということをもって、我が国に対する核の持ち込みというものはなかったということについて何ら疑いはないと思っております。」(黒柳明議員(公明)に対する有馬龍夫外務省北米局長の答弁。89年5月11日、参議院予算委員会)
 この答弁に続いて、首相もそれを確認した。
 「…日米の信頼関係があってこそ安全保障条約というものが成り立っておるし、そこにこの事前協議というものが、条項がある限りにおいて私どもはそういうことはないと信じていくという方針であります。」(黒柳明議員(公明)に対する竹下登総理大臣の答弁。89年5月11日、参議院予算委員会)
 同様な答弁は何度も繰り返された。
 「…核の持ち込み等々がある場合には、これはもう事前協議の対象でございますから、しかも米国からその事前協議は発議するということでございます。なければ持ち込まれておらないということに対して疑いを要せず、もし事前協議あらば三原則に基づいてこれを断固として断る、これが我が国の姿勢でございます。」(大浜方栄議員(自民)に対する宇野宗佑外務大臣の答弁。89年5月12日、参議院予算委員会)
 「…米国は、はっきりと日米安保条約に基づいて、もし核を搭載している艦船等々が日本に入る場合には事前協議に付したく思います、ただしそれは米国から発議をする問題でございます、そういうふうに昔から言っております。」(千葉景子議員(社会)に対する宇野宗佑外務大臣の答弁。89年5月15日、参議院予算委員会)
 一連の議論を精読したとき、「艦船の寄港は事前協議による『持ち込み』の対象ではない」という大平合意の内容は、もはや日本政府内部に存在していなかったと考えるのが順当であろう。政府は総理大臣、外務大臣、トップ官僚のいずれもが、「持ち込み」を米国の<イントロダクション>の訳語として使いながら答弁するのではなく、わざわざ、核搭載軍艦の寄港を含めて事前協議の対象であると繰り返し主張しているのである。しかし、この点の解明は日本の「社会的知力」を問う問題として、今後解明されなければならない。(梅林宏道、大滝正明「核兵器・核実験モニター」第298号、08年2月15日))


1 この会談の様子は中馬清福さんが著書に紹介している。中馬清福「密約外交」(文春新書、2002年)
2 訳は本論の筆者。
3 同上。
4 経過は、梅林宏道「在日米軍」(岩波新書、2002年)に要約されている。
5 梅林宏道ら「民は之を知らしむべからず Ⅶ」。本誌第150号(2001年11月1日)
6 同上。
7 「核密約文書『不存在』」(「朝日新聞」2001年6月10日)

◆連載:核疑惑の精算:デンマークの教訓(Ⅵ)
 歪む非核政策─酷似するハンセン合意と大平合意(その3)

<前回のポイント>
 1973年の空母ミッドウェー母港の時期においては、1963年の大平・ライシャワー合意(注1)が間違いなく日米間で再確認された、と考えるべきであろう。しかし、タイコンデロガ事故が発生した場所が日本近海であったことが暴露された直後の1989年5月における国会議論において、外務省北米局長、外務大臣、内閣総理大臣の答弁を読む限り、大平・ライシャワー合意が政府内部で継承されている痕跡を見出すことができない。日本政府は、強い調子で「核兵器を搭載した艦船の寄港もまた、非核三原則にいう『持ち込み』に当たる」と、従来の主張を繰り返している。

ライシャワー発言「日本政府はウソつき」
 このような1989年5月における日本政府の「持ち込み」問題に対する立場を理解するには、介在する1981年の論争を振り返っておく必要がある。それは、81年5月18日に『毎日新聞』朝刊が最初に報じ、間を置かず各紙とも大々的に報じ続けた、いわゆる「ライシャワー発言」をめぐる国会論争である。この論争では、「持ち込み」問題の重要な論点が広範に論じられ、日本政府の論理構成は相当に煮詰められた。
 ライシャワー発言を伝えた『毎日新聞』の記事を引用しておこう。
 「元駐日米大使のエドウィン・ライシャワー米ハーバード大教授は、このほどボストン郊外の自宅で行われた古森義久毎日新聞記者とのインタビューで、核兵器を積んだ米国の『航空母艦と巡洋艦』が日本に寄港してきた事実を明らかにし、『日本の政府は(核武装米艦艇の寄港、領海通過の)事実をもう率直に認めるべき時である』と語った。この発言は、1960年(昭和35年)日米安保条約改定以来の歴代自民党内閣が『米国による日本への“核持ち込み”はない』と国民に説明し続けてきた公式見解を真っ向から否定するものである。同教授は、安保条約上、核の日本立ち寄り、領海通過が米国に許されることの根拠として、米政府・軍部は初めから『(日本語で“持ち込み”と訳される)“イントロダクション”とは、核の貯蔵など核兵器を陸に揚げて据えつけることを意味する。核兵器の寄港、領海通航を含まない』との解釈を堅持してきたことを強調した。そして『日本政府は、核の寄港は完全にOKだという口頭合意を忘れたのだと思う』と述べ、『日本政府は国民にウソをついていることになる』とまで言い切った。」(『毎日新聞』81年5月18日)(注2)
 大平・ライシャワー合意の一方の当事者のこの発言は、非常に重いものであった。当時も、元日本大使であるのみならず日本研究学者としてのライシャワー氏への信頼と名声のために、発言は尊重され重く受け止められた。しかし、今日からみると、彼の発言はさらに重いものである。なぜならば、彼の発言は、当時はまだ暴露されていなかった米国の歴史公文書「ライシャワーから国務長官への極秘電報」(63年4月4日)の中において彼が報告した内容と、そのまま符合するからである。その内容は、前回の本記事で紹介したものである。
 国会論戦では「ウソをついている」とまで言われた日本政府の明確な反論が求められた。

鈴木善幸首相による完全否定
 当時の鈴木善幸首相は、国会論争の早い段階においてライシャワー発言とその背後にある大平・ライシャワー合意の存在について、完全に否定した。すなわち、毎日新聞の報道から3日後の衆議院内閣委員会において、岩垂寿喜男議員(社会党)次のような答弁をした(注3)。
 岩垂寿喜男「…何としても日米の間で、さっきおっしゃったイントロダクションに対する日本側の解釈というのをアメリカもそうですねということで言っておかないと、どうも問題が残るような気がしてならない。その点は総理、いかがですか」
 鈴木善幸「ライシャワーさんが、当時の大平外務大臣にこの解釈の問題をめぐりまして申し入れをした、また外務大臣と会談をしたというようなことは、私は承知いたしておりませんし、当時の記録に何らございません。私、外務省当局にもこの点を念を押して、当時の経過を外務省は知っておるかどうか、そういうことも調べたのでございますが、外務当局におきましても、そのことは承知していない、こういうことでございます。」
 岩垂寿喜男「…口頭了解というものはないとはっきりお答えくださいませんか。」
 鈴木善幸「…60年安保条約改定当時の交換公文、そしてそれをさらに裏づけるところの口頭了解(注4)、この方針を日米両方で確認をし今日に至っておるわけでございまして、ライシャワーさんと当時の大平外務大臣との間にそういう了解がなされたということはございません。」
 続く公明党の鈴切康雄議員との同様のやりとりにおいても、鈴木首相は次のように発言している(注5)。
 鈴木善幸「…大平さんはそういうことを言っておらない、後の外務大臣にもこのことを引き継いでおらない、外務事務当局も一切承知しない、記録もない、こういうことでございますから、私どもは、先ほど来答弁を申し上げておりますように、…」
 このように政府の回答は追い詰められた者の明快さを伴っていた。ライシャワーが主張するようなライシャワー・大平会談はなかったし、内容は誰にも引き継がれておらず、記録もない、と言うわけである。

日本政府「ライシャワーこそウソか思い違い」
 日本政府による完全否定は、当然、ライシャワー発言、さらにはライシャワー自身への信頼性を否定することになる。日本政府は実質的にライシャワーの側にウソか思い違いがある、と主張した。参議院において公明党の黒柳明議員と鈴木善幸首相との間に次のようなやりとりがあった(注6)。
 黒柳明「今朝も朝日新聞に長文が出ておりますが、…ライシャワーさんはこう書いております。日本政府は日本の国民に対してうそを言っている。フォールスフッドという、丸括弧してUSO、アンダーライン、うそとわざわざ書いているんですね。…どうですか。…強烈なライシャワーさんの発言だと思います。そうなりますと、総理は逆に、おまえこそうそをついているんだと、この場で言えますか。いかがですか。総理。」
 鈴木善幸「…日本国内でいろいろ論議の焦点になっておるという背景の中で、園田外務大臣がマンスフィールドさんにお会いした際に、マンスフィールドさんは米政府の見解としてはっきりと、米政府としては安保条約に基づく、またそれに伴う諸取り決め等については誠意を持ってこれを実行していくということを明確におっしゃっておりますから、私はこのアメリカ政府の公式の見解というものを信用し、信頼をしておると、こういうことでございます。」
 黒柳明「たびたびお聞きしています。…おまえはうそだと言われたんですから、まあ売り言葉に買い言葉ではありませんが、いやおまえの方がうそなんだと、…これではっきりするじゃないですか。どうですか、総理。…言ってやりなさいよ。…うそと言えと強制はできる立場じゃありませんが、いかがでございましょう。うそだと言っている。おまえの方がうそなんだと。」
 鈴木善幸「私も日本国を代表する総理でございますから、ライシャワーさんを相手にしてうそだとか本当だとか、そういうことを言うことはいかがか、だから、アメリカ政府の公式の見解、…その方を信用しておるということを申し上げたわけであります。」
 鈴木首相は歯切れが悪いが、「一国の首相としてお前はウソを言っていると名指しで言うようなことはしないが、別の者を信用するという言い方で、おまえはウソだと表現した」という趣旨である。黒柳議員は同じ質問をもって、矛先を宮沢喜一内閣官房長官に向けた。
 宮沢喜一「…当時のことを人々が正確に記憶しているとはなかなか言えない種類の問題だ…この件も、私は最初から、ライシャワーさん尊敬すべき方なので、どこか思い違いをしておられる点はありませんかと言っておるのでございます…」「思い違いもあるんじゃございませんかというのは、比較的丁寧な言い方でございます。」
 つまり、宮沢官房長官も、「思い違いという丁寧な表現だが、ライシャワー発言を信用していない」と言うことであろう。
 黒柳議員は同じウソ議論を園田直外務大臣にも向けた。
 園田直「私はライシャワー氏に会ったこともありませんし、言葉を聞いたこともありません。しかし、今度のことで、…非常に不愉快なのは、日本の国民は核に対するアレルギー性がひど過ぎる、このじんま疹を治してやろうという考え方のようでありますが、それこそ大国主義を持った米国国民が日本国民に対して要らぬおせっかい…もしそういう御好意があるならば、アメリカ現政府に対して、日本政府と堂々とやりなさいと、…それを一個人の発言で治してやろうなどとお考えになることは、私は外務大臣としては無作法千万なる方だと言わざるを得ません。」(注7)
 前述したように、ライシャワーからラスク国務長官に宛てた当時の電報がその時点で開示されれば、この議論は大きく変わっていたであろう。さらに、ライシャワー発言が1年早く、大平首相が急逝(80年6月)する前に出ていれば…と、考えざるをえない。
 ただ、実りのないかに見えるこの論争の中で二つの重要な事実が浮かび上がっている。第一は、大平・ライシャワー合意は外務省の中に継承されていないこと、第二は、日本政府は寄港、領海通過も事前協議の対象であることを米国との間で再確認することを頑なに拒否すること、である。

タイコンデロガ事件の政治決着
 前回取り上げたタイコンデロガ号による核持ち込みに関する国会論争は、このような議論の経過の8年後に行われたものである。したがって、大平・ライシャワー合意は継承されいなかったという以上に、強く否定する遺産が政府内に継承されていたと見るべきであろう。
 国会によるタイコンデロガ事件の解明は、政府が水爆落下事故の直後、同艦が横須賀に直行、寄港した事実を認めるかどうか最初の関門となった。グリーンピースが入手、公表した公文書である同艦の航海日誌から、それは余りにも明白な事実であったが、日本政府は「米国に事実照会を行っている、その回答を待っている」と答弁するばかりで数ヶ月が経過した。そして、89年の国会が年末休会に入った12月26日(ワシントンDC現地時間)、ワシントンDCにおいて、突然に日米の政治決着が図られた。在米日本大使館に米側から口頭回答があったとして、その内容を日本政府が発表した。それは次のようなものであった(注8)。
 「米国政府は、日本国民の特別の関心を理解し、タイコンデロガの事故をめぐる情報を提供してきた。すなわち、位置及び環境上の影響を含め、当該事故に関する情報を日本政府に提供してきた。しかしながら、米国政府は、この問題に関するこれ以上の議論は、我々の軍の運用上の政策を危うくするものであり、我々の国家安全保障上の利益に悪影響を与えるものと考える。」
 梅林が情報公開請求で米国から得た文書によれば、この内容は数ヶ月にわたって米国内で諸部門の承認を得て作成されている(注9)。この経過の事実と合わせて、上記の文書がすべて米国の事情を理由に書かれていることは、十分に注目する必要がある。今後の「持ち込み問題」解明にとって一つの手がかりであると考えられる。(梅林宏道、大滝正明「核兵器・核実験モニター」第302号、08年4月15日)


1 1963年4月4日にエドウィン・ライシャワー駐日米大使が大平正芳外務大臣を招いて会談し、日本への核兵器の「持ち込み」に関する事前協議の解釈について「核兵器搭載軍艦の日本寄港や領海通過は1960年の日米安保条約改訂に伴う交換公文(岸・ハーター交換公文)において合意した事前協議の対象となる核兵器の<イントロダクション>には含まれない」ことに、両者が完全に合意したことを指す。
2 古森義久「核は持ち込まれたか」(株式会社文藝春秋、82年1月15日)より引用。
3 衆議院内閣委員会録第14号(81年5月21日)24ページ。
4 60年安保改訂交渉時における藤山・マッカーサー口頭了解のこと。後に1968年4月25日、外務省が発表した。
5 衆議院内閣委員会録第14号(81年5月21日)30ページ。
6 参議院外務委員会、内閣委員会、安全保障特別委員会連合審査会会議録第1号(81年6月1日)25ページ。
7 同上、26ページ。
8 のちに衆議院外務委員会で読み上げられたものから引用。外務委員会議録第3号(2000年4月18日)10ページ。
9 90年6月12日、米国防総省が梅林宏道の異議申し立てに対して一部公開。

                                 

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